【信州の風景】 春の水面に響く、釘打ちの音 船大工・半崎保道さん(下伊那郡泰阜村)
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コンコンコン、コココン、コココン、コンコココン……天竜川の水面を、軽快な釘打ちの音が渡って行く。
JR飯田線唐笠駅のすぐ近く、天竜峡の乗船場を出港した天竜ライン下りの舟がたどり着く唐笠港に、船大工・半崎保道さんの作業所がある。
「釘打ちのリズムは僕独特のものでなぁ、体が勝手に動くんだ。口で言おうとしても、うまく言えんよ」
陽に焼けた顔がほころんだ。
この道58年の大ベテラン。昭和26年(1951年)、16歳で船大工の清水師匠に弟子入りして以降、500艘を越える木造舟を作り続けてきた。この春には、木造では日本最大規模の 人乗りの舟を手がけている。長い修業の集大成だという。
◇ 木造舟を作る船大工は、全国でも数少ない。特に、天竜川ライン下りのように急流を下る舟を得意とする人は指折り数えるほどで、半崎さんのもとには、天竜川だけでなく、鬼怒川ライン下りの舟などの注文も集まるのだという。
「川の様子で、舟の形を少しずつ変えなくちゃいかんのだよ。その塩梅(あんばい)が難しいところかな」 細めに作れば荷物を載せても流れの良い舟になる。だが、人を乗せるには、舟が揺れないようにすることも必要で、やや幅広に作る。天竜川のように比較的直線的な川では、舟の全長も長くなり、鬼怒川のように急なカーブが多い川では短く、小型になる。
だが、驚いたことに、そのための設計図はないのだそうだ。 「使う木の硬さが違ったり、木目を合わさなければならなかったりするから、設計図通りにはいかないんだよ。だいたいの形をイメージして、後は、木と相談して作りながら塩梅を決めて行く。やっぱり経験が必要になってくるんだなぁ」
一番苦心するところは、舳先(へさき)=船首部分の両側のカーブ。川用の舟は、舳先を突き出し、流れや波に対応できるような構造になっているが、この両側のカーブの均衡が取れていないと、舵が取りにくい舟になる。しかも、このカーブは、真っ直ぐな板材を徐々に曲げながら作っていくから、とにかく経験と勘がものを言う世界だ。
「なるべく左右同じような質の板を探すんだけど、一枚ずつみんな違うからね。木をだましたり、木にだまされたりの繰り返しだよ」
◇ 半崎さんは船底から舟の横腹=舷側(げんそく)の大半にスギを使う。舷側の一番上の部分にはヒノキ。その比率は8対2だという。スギは軽く曲げやすい上、芯の部分が腐りにくいので水に直接接する部分に向いている。一方、舟の上の端は人が乗ったり降りた りするなど様々な力が加わるので、硬いヒノキが向いているのだそうだ。
「木の使い分けは昔から同じだよ。だけど今は、昔と違って、船底に補強のためにグラスファイバーを塗るようになった。これで、舟の寿命が3年ぐらい延びたね。だいたい10年間ぐらいは使えるようになったかなぁ」 それでも、当然、修理の仕事が生じる。古い舟の傷んだ部分を取り払い、別に作っておいた同じ部品を取り付けるのだが、傾きが違ったり、曲げ具合が違ったりと、新たに舟を作る以上に難しい。これができるのも、半崎さんのようなベテラン船大工だけだ。
◇ 半崎さんが船大工の道に踏み込んだ昭和26年当時は、平岡ダムや佐久間ダムが次々と完成した頃であった。ダム湖に水が溜まり始めると、舟で魚を獲る人が増え出し、木造舟の需要が大幅に伸びた。丁度その時代に船大工としての修行時代を送れたことを「幸運だった」と半崎さんは振り返る。
弟子入りした清水師匠は、静岡県浜松市から平岡に出かけてきていた船大工で、腕が良いと評判の人だった。だが、「弟子は一人しか持たない」という方針で、当時は「親父」と呼んでいた清水師匠と二人だけで、幾艘も幾艘も舟を作り続けたという。
「最初の1〜2年は本当に丁寧に教えてくれた。でも、それ以降は、自分で本当に分からねぇところを質問しても、『前に教えたじゃねえか』としか言ってくれないんだ。それでうんうんうなって考えるようになったんだ。夢の中で答えを見つけたこともあるよ。ああやって自分で考える癖を付けてもらったんだなぁと、今になって思うよ」
一人立ちしてからも木造舟を作り続け、今から42年前の昭和41年(1966年)には、天竜峡港から唐笠港までを航行する有限会社天竜川ライン下り遊舟を設立した。自分で作った舟を使い、父親と自分の二人が船頭を、妹がガイドを務めた。
73歳の現在も、船大工兼同社社長を務め、さらにマラソンやプロ顔負けのカラオケに打ち込む多忙の毎日だ。
「自分が作った舟で天竜川を下る。春は桜・山フジ・ツツジ、夏は舟から打つ投網にかかる銀色の魚、秋は紅葉、そして冬は雪景色……そういうものの中にいると、生きる力を天竜川からもらっているように感 じるよ」
半崎さんが釘を打つ軽快な音は、天竜川の命を刻んでいるかのようだ。 |
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